Tairo Tumblr |
社会人向け研修会社でウェブの責任者やってます。こちら子育て中。猫大好き。実家は箱根で母は芸妓置屋を経営。毎日楽しくやってます(・∀・)b |
■江戸時代も中期ぐらいまでは、武士は武士らしかったようです。享保(きょうほう)元年(1716年)9月に成立したという「葉隠」には、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名な台詞が記されているそうです。
■でも後期になると、武士道も廃れます。以前、弊クイズでご紹介した変な事件もありました。江戸の北町奉行所内で刀を持った百姓が暴れた事件です。武士と奥方が2人ずつ斬殺されています。助かった武士たちも逃げ惑うばかりであり、下人たちが百姓を取り押さえたそうです*2。殿中刃傷沙汰9件のうち、いちばん最後に起こった事件でも、似たようなぶざまな武士が出てくるそうです。
■文政(ぶんせい)6年(1823年)の4月22日のことだったそうです。西丸御書院番松平外記(げき、忠寛(ただひろ))という旗本が加害者です。剛毅木訥(ごうきぼくとつ)な人物だったらしい。調子がいいだけの同僚の旗本たちとは反りがあわず、つねに摩擦があったようです。
■被害者5人。沼間(ぬま)右京、本多伊織(いおり)、戸田彦之進(ひこのしん)の3人は斬り殺されたようです。間部源十郎(まなべ げんじゅうろう)、神尾五郎三郎(ごろうさぶろう)の2人は負傷したらしい。他にも大勢が負傷しているという話もあります。
■神尾五郎三郎は、抵抗もせずに慌てて逃げ出したらしい。背後から尻を切られたそうです。「武士にあるまじき後傷(うしろきず)」ですね。
■「おのおの方!、狼籍者だ!、出合え!、助けてくれー!」と叫んだようですが、肝心の「おのおの方」はみな逃げ出し、部屋の戸を外から押さえていたらしい。参考資料*1には次のような場面が描かれていました。
—-「神尾だ。戸を開けてくれい!、頼む、助けてくれ!」
—-「神尾氏、だいじょうぶか、危なくはないか」
■「戸の内外ではおよそ武士らしからぬ情けない問答が続いた」。で、戸を押さえていた連中は手を離すと、後をも見ずに逃げ出したそうです。ひどいのになると縁の下に逃げこんだのがいたとのこと。臆病者の1人は便所に隠れたらしい。夜が更けるまで恐くて出てこられなかったとのこと。事件の吟味が行なわれた際には、「突然に痔が起きまして」といいわけしたそうです。なんじゃ、そりゃ。
■松平外記は、殿中で腹を切って死にました。その父親は職を免じられたとのこと。でも、外記の子の栄太郎が家を相続できたそうです。被害者側はむしろひどい処罰を受けています。免職・改易・家禄の削減、没収などが行なわれたらしい。勝手な憶測を申し上げれば、外記の激情のおかげで綱紀が粛正された。ユルフンだった連中は酷い目にあい、松平外記の家に穏便な取り計らいが行なわれた…のかもしれませんね。
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